ファーリーはよりよい明日を生きたい

That's why a furry studies posthumanity. / 駆け出しの研究者です。ハラウェイ、クィア、ファンダム、動物、機械/AI、倫理とか。

セクシュアル・マイノリティのコミュニティにおけるアイデンティティの世代間差について(および主にケモノ界隈向けの考察)

表題のテーマに関する興味深い発表を聞いてきたので、以下に要約をまとめてみる。*1

…が、これをまとめておこうと思ったのは、同性愛のポリティクスというよりもむしろ(後述するように)マイナー趣向のコミュニティとしての「ケモノ」界隈の人、もっと言えばそこでポリティカルに活動している人に読んでもらいたいから、という動機だったりする。
そのため、要約以降に記述されている内容は主に界隈(の内部を中心とする)関係者が読まないと全く共感を得られない内容になっている可能性が高い。のでご承知おきを。

 

参照元
斎藤巧弥(北大・院)「ゲイ雑誌『バディ』における「ゲイライフ」の思想と実践」
@関東社会学会(2017/06/03)

まとめにあたっては出典等を大幅に省略しているので、この記事を引用される際は留意のこと。

1993年に創刊されたゲイ雑誌『バディ』。そのキャッチコピーの3つの世代について。

 

【世代①】
創刊当時のキャッチコピーは「強い男のハイパー・マガジン」であり、内容も男らしさを前面に出したもの(=『薔薇族』と大して変わらない)。
しかし1997年からキャッチコピーが「僕らのハッピー・ゲイ・ライフ」へ変更、方向性も変わっていく。

 

・「ゲイライフ」の語。広めたのは伏見(1991)の『プライベート・ゲイ・ライフ』? (2001年当時の)30~40代以降のゲイ男性(=先行世代がないとされる)の生き方として。
「ゲイライフ」の2側面。①アイデンティティの肯定と個人の生の結びつき。②具体的なライフスタイル・ライフコース。

 

・キャッチコピー変更の理由:読者にゲイとして肯定的なアイデンティティを構築させること。現実にはハッピーなゲイ・ライフなど存在しないが、夢見ることをあきらめないという姿勢。わかりやすいハッピーの例:結婚式。

 

【世代②】
・2001年にキャッチコピー再変更、「GAY LIFE MAGAZINE」に。読者の多くは自分を受け入れ、楽しくゲイライフを謳歌している(=ハッピーは当たり前に)ようになった。 → 具体的な生き方の提示に。

 

・30代以上のゲイ男性の生き方が『「本当」に「シアワセ」な「ゲイライフ」』として規範化(≒エリート像)して語られるようになる。仕事の成功でお金や社会的地位を確立し、プライベートも充実し、ゲイシーンにも貢献し、若い人からも慕われ…
その反対として位置づけられるのは「若ゲイ」。セックス主義、見た目の性愛ゲーム…

 

こうした語り方をしているのはほかでもない上の世代のゲイたち。世代差が生じている。1999年の特集「オバサン・ゲイ vs コギャル・ゲイ」

「オバサン・ゲイ」:30~45歳。ゲイへのこだわりが強い。苦労して生きてきた。「ゲイ」アイデンティティが本人にとって決定的。ゲイシーンを作り上げてきた。

「コギャル・ゲイ」:18~22歳。自分へのこだわりが強い。上の世代のゲイの苦労を知らない。「ゲイ」であることより「自分」であることを求める。ゲイシーンを受け継ぐか不明。

 

・こうした対比:上の世代の複雑な感情=警戒や危機感の表出。「今まで築きあげられてきたもの(=ゲイシーン、歴史、ゲイであることそのもの)が失われるのではないか」。若い世代は気ままであっけからんとしており、ゲイであることへのこだわりが薄い、すなわちゲイシーンへの関わりも薄くなると予想される。

 

・上の世代の苦労:(1980年代は)ゲイ雑誌も少なく、ゲイナイトもなく、「ゲイ」を肯定的に捉える発想もなかった。苦労しながら、悩みを通して「ゲイ」であることやゲイ男性同士のつながりを獲得し、自ら主体的にアイデンティティを獲得してきた。他者からの強い否定と「ホモ」という烙印に曝され続けることによって得ざるを得なかった負のアイデンティティを、肯定的なものへと変える過程でもあった。
若い世代:情報収集や出会いの容易化によって、簡単に肯定的なアイデンティティを構築できる。ゲイであることの重要性が低下。

 

・上の世代の「ゲイライフ」の強調(の言説)は、アイデンティティやコミュニティ、歴史などを継承してもらうために、若い世代に「ゲイ」であることを意識してもらう必要から生まれたもの。
一見「具体的な生き方」の強調であるように見えて、実は「アイデンティティ構築」の側面がかなり強いもの。

 

【世代③】 
・2009年以降:キャッチフレーズこそ変わらない(誌名は微妙に変更)が、「ゲイライフ」の語は激減。ゲイ雑誌全体の衰退傾向(相次ぐ休刊)に合わせて発行部数も減少。インターネットの影響もあるだろうが、『バディ』のもともとの役割(=「ゲイライフ」の啓蒙)がなくなりつつある?

 

・何のために『バディ』は刊行され続けているのか:純粋な商業誌としての役割よりもむしろ、コミュニティを具体的な形態として顕現させる役割? 雑誌そのものというよりも、ゲイの歴史やゲイの文化を維持しようとしている?

 

・もはや「ゲイ」のアイデンティティを個人が持つべき、という規範的価値観は消失。代わりに、個人にアイデンティティを課すことなく歴史やコミュニティを維持・存続させようとしている試みだといえるのでは。

 

【補足】
・日本のゲイシーンには海外のゲイシーンのように大きな(語り継がれるような)歴史的イベントがなかったから、危機感が強くなったのでは

・『バディ』で言われていた「ハッピー」は、あくまでもゲイ男性のつながりの中にいるときのもの。「日常」で本当に「ハッピー」なのか? コミュニティの内側で満足して、外側に目を瞑っているだけでは?

 

この発表を聞いて思ったこと(私がこの記事を書くことで言いたかったこと):

「これって〈ゲイ〉を〈ケモナー〉にしてもだいたい成立してしまうのでは…」

 

これをまとめただけでだいぶ体力を消費してしまったので、詳細な議論はまた日を改めて書き加えたいが、現時点で頭に浮かんでいることをいくつか補足としてここに記しておく。

・『「ケモナー」=「ゲイ男性」』という等式を成立させたいわけでは無論ない。「ケモナーならばゲイである」という命題のスティグマ性は常に意識されねばならないし、海外のファーリー(Furry)が何と戦ってきたかという運動の歴史を鑑みても明らかだろう。しかし、「Furryのコミュニティの多数が非ヘテロセクシュアルの男性で構成されている」という事実は否定しがたいし、海の向こうのFurryコミュニティにおける調査や運動は、そうした事実とどう向き合うか、という活動にほかならないのではないか。
あくまでこの主張は、(ケモノとかいうひとつのマイナージャンルより遥かに規模も大きく歴史も長い)ゲイ(男性)のコミュニティで当事者が抱えていたらしきものと、私が感じていたり、あるいはわたしの周囲で観測されていると思われるものとの間に、何らかの「類似性」が見られるのではないか、と私が勝手に思っただけの話である。

・手短にどういった反論が考えられるか、あるいはゲイとケモナーとの相違点について。
上の世代のゲイが

他者からの強い否定と「ホモ」という烙印に曝され続けることによって得ざるを得なかった負のアイデンティティを、肯定的なものへと変える過程

 を経験したことによって、ある特定の規範を語るようになった…というストーリーなのだが、ここはちょっと差異を見出せる点だと思っている。
「ケモナー」というのが一種の烙印となっている/なっていたことについてはある程度同意できそうだし、「負のアイデンティティを肯定的なものに変えよう」っていう機運もといポリティクスは、最近ケモノ界隈であれこれしている*2(私の周りの)人たちの意図しているところとしてなんとなく共通しているように見える…というのもある。

が、この「ケモナー」っていうアイデンティティが持っている烙印性っていうのは、外部からの付与もさることながら、自分が自分に付与する半ば自虐のような烙印ではないのか……というのが率直な感覚。

*1:本当はTwitterに書き散らそうと思っていたのだけれど、あまりにも長大になりすぎるのでブログ使うか…となった

*2:イベントを運営したり、といったくらいの意味。大した含意はないのだが、今とても急ぎながらこの文章を打っているので適切な表現が浮かんでいない